「あなたはいつだってそうだ。我が儘なんじゃあないか、」
「そう言う君だって、」


今日は満月だと言うのに。雲で見えないなんて酷い話。


「我が儘だと思うけれど」




                                    月と君と音。




雨の音がこんなにも耳障りだと思ったのは初めてだ。何時だって、雨は全てを
流してくれそうで、その音に耳を傾け秒針も聞こえない。なのに今日はその音
ばかりきになる。
秒針が刻まれる。あなたに会えない時が刻まれていく。
ああ、耐えられない。いつのまにこんなにも弱くなってし
まったのかしら。

古めかしいレコオドは確かあの人の趣味だった。小さくなるディスクに目をく
れずにそんな大きくて高い物を後生大事に取っておく。一体それと私とどっち
が大切なんだ!
そちらばかりに気を向けて。一緒にいる自分はその音の海の中に薄れて行って
しまうばかりで。

喧嘩をしたんだ。久しぶりに泣きそうになった。私は正しい道をいつも見失う
から。彼が導いてくれていたのでその道の選び方や探し方を忘れてしまったじ
ゃあないか。とんだ依存症。レコオドは私の部屋にも置いてある。それを見る
度に思い出してしまうなんて。

雨の音が煩くなって来た。今夜の月はあなたと見る予定であったのに。時計の
音も雨粒の音も消し去るように仕方なくレコオドをかけた。どうやったら良か
ったのだっけ。彼はどうやっていたっけ。いつもその仕草を少し離れたソファ
で見ていたから。それは後ろ姿だった。ああ、雨の音が煩い。何も思い出せな
い、せめてあなたの顔を。


「    、」


彼がいたからシイディもエムディもないのに、彼がいないからレコオドもきけ
ない。莫迦みたい莫迦みたい。仕方ないから鼻歌でもしようか。どうせ思い出
されるのは古めかしい音調からのものだけれど。



「雨に濡れてしまったよ。君が追い出すから」
「違う、あなたが勝手に出て行ったんだ。私は悪くない」
「タオルを借りるよ、あと台所も。何か温かいものが飲みたい」
「それならレコオドをかけてよ。…私には分からないみたい、」



いいよ、彼はそう言っただろうか。髪から水滴が落ちて床に垂れている。それ
を掃除するのは私の仕事になってしまうのに。…違う、彼が掃除をしてくれて
いた。私はそれをやはり見ているだけ。後ろ姿、横顔。外は寒かっただろうか、
色白だけれど少し青白くも見える。早く温めないと。
でも温かいものを淹れに台所へ行ってしまった。私はいつも気付くのが遅い。
後悔も反省も驚くほど遅い。ご免なさい。

触れた私の指先と彼の肌は同じくらいの冷たさで。体温が感じられなく、唯感
触が互いの存在を認識させていく。湿った肌をなぞっていたら、乾燥した皮膚
がそこに引っ掛かった。目を細めて小さく痛いと言う。ごめん、と言ったけれ
ど伝わっただろうか。


「君のがよっぽど冷たいみたいだ。ストォブくらいつければ良かったのに」
「何もやる気がしなくて」
「何でもかんでもやらせる気かい、本当に、我が儘」


呆れて笑う顔を共有した過去の中で何度も見た。その後に許してくれる声色が
酷く心地良く。生暖かいぬるま湯に浸かりながらそれが永遠なのだと子供のよ
うに信じる。湯気と紅茶の薫りが鼻腔をくすぐる。彼の指は、指だけでも温ま
ったかしら。指からカップをほどいてそれに自分の手を絡める。両方の体温が
解け合うみたい、雨の音とレコオドの音が混ざり合うみたいに。


「我が儘かな、」
「そうだね、これほどのものは他で見たことがない」
「我が儘は、あなたにだけだ、」
「…酷い、科白を言うね」
「あなたにだけ」


唇で温度が測れるのだと初めて知った。レコオドの音が途中で途切れる。スト
ォブで少し乾いた唇が瞼にキスを落とす。熱が広がる。彼はすぐに途切れた音
の元へと行ってしまった。私はいつになったらあの音よりも視界に入る事が出
来るのかしら。憎まれ口を叩いても我が儘にしても素直になってもあなたには
届かないの。思い出した。だからあんな子供のような癇癪で喧嘩を。


「音が、無くなった」
「え、」
「きっと月が見える。今日は満月なんだ、」
「気付かなかった、雲で厚く覆われていたから」
「雲はどこかに行ったかな、」
「どうだろうね、一緒にベランダへ出ようか、」


窓を開けると少し湿った冷たい空気が部屋の中に入ってきた。レコオドの音が
少しだけ小さくなった気がした。明るい街の上に暗い雲が凄い勢いで流れてい
く。風が吹いているんだ、雨のように全てを流してしまうだろう。月明かりが
小さく雲の隙間から顔を出す。

雨の音が気に入らなくなったのは、あのレコオドを私の家に持ってきたからだ。
それを見て彼を思いだし、雨音より気になる秒針がカチカチと意味のない時間
を知らせる。彼が何かをしてくれる分だけ私といる時間が増えてくれるような
錯覚を起こして、結局全て我が儘なのだけれど。いつでも彼は笑ってくれるか
ら其れが正しいのかしら、と思っていた。でも其れはどれを正していいのか分
からないくらいに間違っているらしく。彼はつい先刻まであの雨音の中独りい
たのだ。私の所為なんだと思う。


「月を、見ようと思ったのだけど、」
「うん、」
「雨は降るし、あなたはいなくなるし」
「うん、」
「レコオドをかけようと思っても、あなたはいないし、」
「うん、」
「どうしたらいいのか分からなくて」
「うん、」
「私は駄目になってしまったよ。あなたがいないともう時期に息の仕方も忘れ
てしまいそうだ」


窓を開けたから部屋の中に籠もっていた音や感情が全て解き放れているような
気がする。彼は月を眺めている。横顔はとても奇麗で、そのおとがいに影が落
ちた。淡い月明かでもこんなにもはっきりと。


「僕の事が好きなんじゃあないのかい、」
「言った事はなかったっけ、」
「聞いた事がないね。それじゃあ本当に」
「言わなかったのはきっと、あなたがいつもレコオドばかり聞いているから」
「そんな事はないだろう」
「もしかしたら言っていたかもしれないよ。あなたが気付かなかっただけ」
「そうだろうか、」
「ねえ、お願いだから、音の中で私を見失わないで」


レコオドの音があなたを魅了するほど素敵な物だと認めるけれど。目を瞑って
聞いてばかりいたら、月が見えないかもしれないじゃない。


「一寸でいいんだ、私の事を見ていてよ」
「其れは、充分に、」


月明かりの下、あなたは笑う。湿った髪がその光を反射しきらきらと輝いた。


「君はとても我が儘だから。他に目を向ける暇なんか有りはしないさ」
「嘘、レコオドの方が大事なくせに、」
「僕がレコオドを聴くと君は僕しか見なくなるだろう、」
「…、え」
「僕ばかり君を見ていては悔しいじゃあないか」
「…酷い、」
「ほら、知っているだろう。僕も我が儘なんだよ」


雲が、厚く暗い雲が月明かりに見送られながら何処かに散っていく。月周りは
星の輝きが薄れているけれど。部屋の中から微かにレコオドの音が聞こえた。





















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