「っあ〜…良い湯だねぇ」
「おっさん、おっさん臭いぞ」
「ちょっと青年!本当のことのが傷つくのよ!?」 






                                                            トランキライザー








ちゃぷんと波を立て、レイヴンはユーリに抗議した。森の中にひっ
そりと佇む温泉郷。つかの間の休息にここを選んだのは、館守の粋
な計らいで貸し切りとして提供してくれたからだった。良い具合に
空には月が浮かんでいる。男同士では味気ないが、体を休めるには
十分だった。 


「落ち着くわー」
「いつも落ち着いてるだろ」
「いやいや照れるわ」
「照れんなよ」 


水音と森に住む虫の声がしている。二人の話し声はよく響いた。視
線は合わさず、湯煙に霞む月を見上げる。少しだけかけている月は、
存分に地を照らしていた。 


「ユーリくんといると落ち着くのよ」
「…」 


いつもの軽口かとユーリは返そうとしたが、そうでもない様子に口
を噤んだ。ぱらりと横髪が目の前に垂れる。黒髪を束ねなおしてユ
ーリは息を吐いた。それほど長い間入っているわけではないが、ず
い分体は温まっている。温泉の効能かと納得し、肩まで入り直した。
傍らを見ると、それに倣うようにレイヴンも肩まで湯に浸かってい
る。 


「温泉は良いね〜」 


少し離れたところから、どぼどぼと湯が入る音がした。この温泉は
掛け流しのようだった。常に新しい湯が巡っている。効能か、雰囲
気か、どれとも取れずにユーリは応と返事をした。 


「俺様がゾンビだって分かんないでしょ」 


一瞬、間をおいてユーリは言葉の意味を理解する。彼の心臓の話だ。
人魔戦争の折に無くした命はブラスティアで繋がれた。その状態を
レイヴンはよく死人だ、などと現していた。突飛な話をする方では
ない。前後に繋がりがあるのかとユーリは聞くに徹する。しかし、
なかなか言葉の続きは語られない。気にならないわけではない。た
だ、ここで聞いてしまえば過分に彼に踏み入ってしまう気がして躊
躇われた。 


「ただの風呂だとよく分かるのよ」 


レイヴンは見透かしたように笑みを浮かべながら言葉を続けた。頭
の上に乗せていたタオルを湯につける。湯船の外でそれを絞ると顔
を拭いた。ふぅ、とわざとらしく息をつくと肩と肩の距離を詰める。
お湯の中に浸かっていた右手を出し、ユーリの胸の中央に手のひら
を押し付けた。日に焼けていない肌との若干のコントラストが二人
の視界にちらつく。

精神的にも肉体的にも一定の距離を保っているユーリにとって、今
の状態はいささか居心地が悪かった。平常心を保とうとしても、僅
かに心臓が跳ねる。


「ポンプ活動する心臓は振動する。血液を循環させているだけのブ
  ラスティアは鼓動しないのよ」 


胸にあった右手がユーリの左手を掴んだ。そして、自分がそうした
ようにレイヴンはその手を鼓動しない胸に乗せた。騎士団実質ナン
バー2の肩書きは伊達ではない。引き締まった筋肉だと触れただけ
で容易に分かる。その皮膚の下には確実に赤い血が巡っているのだ
ろう。

しかし、レイヴンの言う通りそこに鼓動は無かった。 


「なーんも動かないで普通の風呂に入ってると、見た目でも分かっ
 ちゃうのよね」 


それが鼓動から来る水面の揺れだということが、この温泉と一般の
湯船の違いで知れた。脈打たなくなった体とはどのようなものなの
だろうか。ユーリは自然とその体を目で追っていた。見た目には分
かりようがない。ただ、彼の心臓にあたる部分だけは生物ではない。
お湯で変化した温い温度がそこにはあった。 


「心臓だけが人の生き死にじゃねーんじゃねぇの、」 


温泉に入り、疲れを癒やす。湯船に浸かり、気持ちいいと感じる。
それらは紛れもなく生きているものの感覚であり、本当のことだと
ユーリは考えた。 


「おっさんがそんなに繊細だとは知らなかったな」
「…、」 


返答しようと動いた唇は、結局音を発さずに閉じた。ユーリの腕を
捕らえていた力は弛まり、どちらの腕も湯の中に浸かる。レイヴン
は敵わないよと笑うと、もといた位置に戻った。それはユーリにと
って丁度良い距離感であり、レイヴンにとっても同じだった。干渉
せずに構う。肉体の内側に踏み入れて良い距離を分かっているのだ。 

月の明かりがきらきらと水面を照らす。黒髪の青年の言葉を聞いて、
踏み入って欲しかった場所があったのだと、レイヴンは気づかされ
ていた。 


「俺、ユーリ君いないと生きていけないかも」
「…気持ち悪ぃこと言ってんなよ」
「まっ、ひどいわ!おっさん傷ついちゃう」 


一回りほど歳の離れた彼に、どれほどの期待と安心を覚えるのだろ
うか。レイヴンは自分の考えに苦笑しながら、明日は普通の風呂に
でも入るかと考えていた。













ブラウザで閉じちゃって下さい
*気まぐれな猫*http://kimagure.sodenoshita.com/*