テレビの中で見るような綺麗な手だと思う。その手がどこにでも
あるボールペンを握り、書類に文字を記していく。引っ越したば
かりなのか、住所や電話の情報を埋める欄になると、携帯や手帳
を取り出して確認していた。お客様が書き終わった後に内容を確
認すれば良いのだが、定時も近く、面倒だったので書いている情
報に漏れがないのかじっと見る。

特徴的な字だった。字の中心が文字の上に寄るような、払いが左
右に大きく広がる。その字を見たことがある、と思い当たるのと、
幼い記憶が甦るのはほぼ同時だった。 






                             ガードレール








田舎町がテレビにクローズアップされたのが12年前。この地で
有意義に過ごす元都会人を特集した時のことだった。その放送を
きっかけに「田舎ブーム」が巻き起こり、都会から田舎に人が流
れ込んだ。それを機会にこの町にネット回線が張りめぐらされ、
道路も整備された。快適な暮らしを約束された田舎暮らしがご所
望らしい。その矛盾した願望を目の当たりにし、昨日まで自由に
駆け回った空き地が、メットを被った複数の大人たちに覆われ、
愕然とした。 


「あいつ『外』から来たやつだって」 


住み慣れた田舎町が不自然な形で都会化していくのを、昔からこ
の地にいる大人たちは快く思っていなかった。喜んでいるのは町
長くらいだ。新しくこの地に住まおうとしている人間を、大人た
ちは『外の人』と形容する。親が敵意を向けるものに、同じ感情
を向けるのは子供にとって仕方のないことだった。その形容詞は、
子供の中でも広がった。 


「外のやつ?」
「新しく出来た家に入ってったの見たんだ。間違いないって!」 


仲間内で新しい遊び場を探している最中、友達の1人が遠くに見
える少年を指差して、嬉々として話す。それは明らかに好奇の目
だった。それに同意するかのようにはしゃぐ他の友達と一緒にい
るのが少し嫌だった。けれど、なぜ嫌なのかもうまく説明出来な
いし、そんなことで意見を割る勇気もなかった。  

あれは、小学校の帰り道だったと思う。町の端には川が流れてお
り、その近くには沢があった。簡単に水場に入れる状況を問題視
した大人が、道と沢を隔てるようにガードレールを設置した。そ
こは緩いカーブでもあり、車が誤って転落してしまうのを防止す
る為でもあったのだろう。

その時の自分には、また遊ぶ場所を奪われたという考えでいっぱ
いだった。

その場所に彼はいた。ランドセルを背負い、真新しいガードレー
ルに手をつき、川の方を眺めている。しばらくその様子をうかが
っていたが、ぴくりとも動かない。じっと何かを見ているのだ。
いつも友達と遠巻きに見ていた彼だったが、間違いなく同一人物
だと確信する。見ていたのは、沢の岩に転がった一足の靴。彼は
片足しか靴を履いていなかった。 


「なんで取りに行かないの、」
「…」
「あんなの、ここ降りたらすぐなのに」 


こちらの言葉を聞くと、何かしばらく考え込んでいた。そうだね、
と口が動き、頼りない足取りでガードレールをまたいだ。こすれ
たところが白く残る。折り目もきちんと付いたズボンには汚れと
いう汚れはなく、そこで初めて彼がそういった行動を普段しない
ことに気付いた。 


「待って、俺も降りる」


ガードレールをまたぎ、反対側に立っていた彼に声をかける。1
メートルほどの斜面の先に沢はあった。自分も彼に追いつき、見
本を見せるようにゆっくりと降りる。 それに倣って降りた彼は、
無事に靴を揃えることが出来た。道路の上に戻ると、こちらに向
けて深々と頭を下げた。そういった丁寧なお辞儀は大人だけがす
るものだと思っていたので、恥ずかしくなる。体ごと彼から背け
ると、彼は道に置いていた自分のランドセルを開け、中から筆箱
を出した。

よく見ると、カバンの中は濡れており教科書やノートはよれてい
る。自分もジュースをこぼしたことがあるので、乾ききるまで書
けないということを知っていた。彼は、ガードレールに鉛筆で字
を書いた。 


『ありがとう』 


ゆっくりと丁寧に鉛筆の先が動く。習字の筆の動きくらい遅い。
風が沢の近くの植物を揺らし、葉の音が耳に残る。その時間は嫌
いではなかった。


『助けてくれて、すごくうれしかった』 


書き終わると、僅かに微笑んだ。彼が声を使えないことは気にな
らなかった。字に記し、それを読む。今の自分にはそれがちょう
ど良い距離に感じていた。 


しかし、それは唐突に終わった。 


「お前、なにやってんだよ」
「なんで外のやつといるんだ?」 


いつも遊んでいた友達が、外のやつを見るような目でこちらを見
ていた。冷たい目だ。それは大人たちと同じ眼差しだった。それ
が自分の方に向けられていることが、たまらなく怖かった。    


(オレは、逃げたんだ)


反論することも、同意することも出来なく、その場を離れた。後
ろを振り返らずに、ただ走って逃げた。数日後、同じ場所を訪れ
た。ガードレールには、かすれた文字の他に、ばいばい、と新た
に書き加えられていた。後から知ったことだったが、彼はこの地
へ療養に来ていたということだった。ろくに話もせず、彼は都会
へ帰って行った。

今、目の前にいる男が書いている字は、あの日ガードレールに書
かれた字と同じだったのだ。幼いころの記憶だ。あてには出来な
い。ただ、一度思ってしまうと、記憶の中の彼と目の前の男が同
じ人物に見えてならない。昔から白黒を早くつけたがる性格だ。
考えるよりも先に、言葉が口をついていた。


「…小さい時、この町に来ませんでしたか、」
「え、」


書類にペンを滑らせていた手が止まり、驚いたようにこちらを見
る。そりゃそうだ。聞き方を間違えればたちの悪いナンパだ。弁
解しようと言葉を探していると、その驚いた顔が昔見た優しい笑
みに変わった。


「心残りがあったので、この町に越して来たんです」
「心残り、」
「文字ではなくて、直接ありがとうと伝えたくて」


ガードレールに書かれた文字は、数日もしないうちに風雨によっ
て消えてしまった。モノクロにかすんだそれが、再び色を持つよ
うに、彼はしっかりと言葉を発した。

仕事が終わったら、彼と一緒にあの場所へ行こう。定時まで刻々
と進む時計を見ながら、密かに心に決めた。















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