「ほら、もう少しで着く」


素足で白い階段を上がるのは、生きていた頃の人生半分くらいの時間だろうか。
長い、長い階段が雲の果てまで続いている。
オレは吹き出す汗を拭った…つもりだったが、そんなものはない。続く、長い
螺旋の階段。
周りは何時まで経っても雲ばかり。此の階段はどこまで続いているのだろう。
上を見上げてもその先は見えない。

オレの一段上にいた男が、こちらを振り返って手を差し出す。
階段の先は見えなくても、空に浮かんでいる太陽が彼の後ろにあった。後光が
差しているように見えて、仏か神かよく分からない。自分がこんな事になるな
らば、もっとその辺りの事を調べておくんだったと後悔する。
だけれど、訊く限りの話の中に階段なんて殆ど出て来なかった。あっても、先
がちゃんと見えて、短いものだった筈。

差し出された少し日焼けした手を振り払ってオレはその場に座り込む。


「もう、疲れた。先に行ってくれ、」
「そうは行かねぇよ。せっかくここまで一緒に来たんだろう。それにここに留
まってどうするつもりだ。降りるとでもいうのか。地に足が着くとすれば、そ
こは現世でも天国でもない。地獄と呼ばれる所だぞ」
「…良く喋る口だな、疲れを知らないのか」
「お前がそうやって子供のように駄々を捏ねては、流石の俺でも疲れてしまう
だろうな」


疲れた、と言っても本当に肉体が疲れている訳ではない。肉体と表現して良い
のか微妙な所だが、恐らく生きていた頃、そう呼んでいたものと類似している
ものは、疲れてなどいない。
唯、もしこの体が生きている時のそれであるなら、とっくに疲労困憊で、息を
するのも億劫だった筈だ。

男は乱暴にオレの腕を掴んで、(口と同じく乱暴だと思った)無理矢理に上に
歩いて行かせようとその手に力を込める。
それがとても痛いものだから…もとい、痛くはないのだが、そう感じてしまう
為に座っていた腰を起こした。

苦痛もなにもない、今の状態は不思議な物で。目から得た情報が、生きていた
頃のものと比較してこう感じるはずだと頭が反応している。刃物に触れて痛い、
と思うのとは違い、痛そうだ、と思ってから痛みを感じる。そんな感じだ。
まったくもっ意味のない。


「…もう、どれくらい歩いた、」
「さあ。ここで現世の時間が流れているとは思わないけれど、もし有るとすれ
ば数十年だろう」
「あと何年登り続ければいいんだ、」
「そんな事聞かれても。答えられる訳ないだろう。俺は神様ではないから、」
「この階段は本当に天国に続いているのかな。登り切る前は地獄みたいだ」
「それじゃあまるで、天国に行くのが厭みたいだな」


男は階段の先を見つめたまま、こちらを見ずにそう笑った。
手は繋がれたままだ。長い長い時間が過ぎる。もしかしたら、これはそんなに
多くの時間ではないのかもしれない。ひょっとすると、一瞬の空間の中での出
来事なのではないか。

上も下も雲と空ばかり。太陽もずっと煌々と輝いている。
あれは熱いものだっただろうか。そんな感覚さえ分からなくなってきている。
唯、男の体温は感じられた。感じられた振りをしているだけかもしれなかった
のだけれど。それでも、オレはそう思った。



「いつから登っているのか分からなくなった」
「お前は途中から俺と一緒になったんだ。随分昔で、随分下の方だったけれど。
覚えていないか、」
「忘れてしまったよ。ちょうどいい、このまま登り続けるのも疲れるし。その
時の事を聞かせてよ」


退屈なんだ、とオレは言う。男の背ばかり見ているのにも飽きてしまったから、
今度は横に並んで歩いた。白い螺旋階段。
そこまで続くのだろうか。登り切ったその時は、今の辛い事を笑って話す時が
来るかもしれない。


「俺は本当に現世に近いところから登って来ていてな、お前を見つけたのは登
るのに飽き飽きした頃だった」
「それじゃあ結構重罪人なんだ、」
「罪の枷が重くて高い所まで浮いて行かれなかった。そうだ、それでお前を見
つけたんだ。人が登ろうとしている所に寝そべって、何て邪魔な奴だろうと思
ったよ」


死んでしまった肉体から空に浮かび上がる魂は、生きていた頃の罪の重さを足
枷の重さにして浮上する。階段は何処から続いているのか忘れてしまったけれ
ど、随分下の方からあるのだと確か此の男から訊いた気がする。
罪が軽ければ枷は軽くなり、もっと天国に近い、階段の上の方まで上がって行
ける。だけれど、罪が重かった時は、その分この長い階段を上り続けなければ
ないない。


「…そんな事があったのか、」
「これだからお前は。この話を何度したと思っているんだ」
「何度も訊いたの、」
「まあ話すことはこんな事くらいしかないけどな。お前は何年か前にも同じ事
を訊いて、俺も同じ話しをしていた。邪魔なお前を蹴落とそうかと思ったんだ
けどな、ほら、お前は割と奇麗な顔をしているだろう。だから躊躇して起こし
たんだ」
「…その時の事は少し覚えているよ。見上げたらあんたは太陽を背負っていた
から、神様が迎えに来たんだと思った」
「そう、言ったよ、お前は。違うと言ったら怒ってたな。そこから一緒に歩い
てきたんだ。これで話は終い」


彼から訊いた筈の事柄が色んな所で歯抜けになっている。死んでしまうと、そ
ういった記憶があやふやになってしまうのだろうか。太陽を背負っていたのも、
前に見たものではないのだろうか。オレには判別がつかない。

まだ色んな事を訊きたかったのだけれど、彼は其の話を打ち切ってしまったの
で、続きはなかった。それが少し哀しそうに見えたのは気のせいかもしれない。

オレは男の顔が見えるように、彼よりも前に出た。先程から何回も見ている気
がするのに、不思議と其れを思い出すのは困難だった。




「あそこに扉が見えるだろう、あれが天国への入り口だ」
「やっと着いた」
「さあ、ここでお別れだ」
「どうして、」
「あの扉に入れるのはお前だけだ。俺は、駄目なんだ」
「…どうして、」
「俺は、天国には行かれないんだ。枷が重すぎる」
「じゃあ、どうしてここまで登って来たんだ」
「お前が何も知らないからさ。ほら、早く行けよ」
「でも、」
「聞き分けの悪い事を言うんじゃねえ」
「…」


何時の間にあったのだろう、どうして気付かなかったのだろうと思える程の大
きな扉は、既に開いていた。しかし、一緒に行くと思っていた男は一段前で其
の足を止める。繋いでいた手を離して、日焼けした手は、其の大きな手はオレ
の頭をぐしゃぐしゃと撫でて、手を振った。さよなら、と。


「じゃあな、ユウ」


閉まる扉の向こうで男は笑った。














彼の両足に二人分の枷を見た。












『なー、天国ってあんのかな』
『さぁ』
『あっても行けないだろうなぁ。愛し合っちゃってるし』
『お前キリスト信者だったのか』
『違うけど。多分一緒に地獄に行けるよ』
『莫迦、そん時はお前1人ぐらい俺が何とかしてやるよ』
『あの世にツテでもあんの、』
『あってたまるか』












彼の両足に二人分の枷を見た。













「おや、君、枷はどうしたんだい」
「え、」
「枷がないということは現世の記憶もないんだろう、可哀相に」
「記憶、」
「そうかそれも分からないか。枷は罪の大きさによって重さが
変わる物だけれど、その中には現世の記憶が含まれている。君
の場合、記憶はないだろうけれど罪がこれっぽっちもない。き
っと誰よりも歓迎されるよ」
「…」



せめて枷の一欠片、彼との記憶の分の一欠片が欲しかった。
彼の名前さえ分からない。

扉は二度と開かない。彼と二度と会えない。きっと自分は、彼を好きであった
のに。その気持ちさえ、なかった。



『じゃあな、ユウ』



彼に呼ばれるまで自分の名前なんだとは分からなかった。



(お前一人の罪くらい、俺が何とかしてやるよ、)



彼の両足に二人分の枷を見た。扉は二度と開かなかった。








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