独特の青い匂いが鼻をかすめる。いつも替えたばかりの時に分かる
この匂いは、時間が経つと匂いを放っていたかも怪しいほどに忘れ
てしまう。先日替えた畳に指を這わせ、ぼんやりと考えを巡らせた。
それは少し、彼といる時間に似ていた。  









                                                            腕の中の時間








「恭弥、」  


襖が溝にひっかかり、がたんと音を立てる。本来は、そんな騒々し
い音を立てない為の造りだ。彼が入って来る時は、必ず騒音がセッ
トになっている。以前のように茶器の割れた音でなかっただけ、い
くらかましだった。そういえばその弁償代を貰っていないことを思
い出し、恭弥は入って来た相手を見上げた。最初にここを訪れた時
に見立てた濃い緑の着物を着ている。おそらく、ロマーリオと草壁
が手伝ったのだろう。彼にしては有り得ない綺麗な着こなしだ。足
元も、動きやすいように少し丈が上げてある。


(裾上げは必要ないのか) 


これでも随分身長は伸びたのだが、ついに追いつくことはなかった。
それを喜んでいたのが気に入らなく、容赦なく叩きのめしたのはつ
い先月のことだ。 


「土産買って来たんだ。見るだろ?」
「また変なもの買って来たの、」
「変なのって。その割に飾ってあるじゃねーか」
「置く場所に困ってるだけだよ」 


和室の端には一段上がった床の間がある。毎日花器には季節の花が
生けられており、その横には何やら怪しげな置物や食べ物の缶詰め
が乱雑に置かれていた。ディーノがイタリアから日本に来る度に品
数は増えているのだ。今日も例に漏れなく、紙袋から取り出された
得体の知れないものが、恭弥の前に並べられる。外見はそこそこな
のに、どうしてこういうセンスはないのだろう。匣の謎より難解そ
うだと嘆息した。 


「あとは、これ」
「なに」 


最後に取り出された小さめの箱。他はろくに包装などしていないの
に、それだけはラッピングまで施してある。ほら、と促されるまま
それを手に取った。軽く振ってみても、多少の重みを感じるだけで
中身を知るような情報にはなり得なかった。仕方無く、かけてある
リボンを解き、中身を確かめる。 


「来月は日本に来れそうになくてさ」
「…わざわざイタリアで買ったの?」 


小さく区分けされた箱の中には数粒のチョコが入っていた。そうい
えば来月はバレンタインという行事がある。町内会の売り上げが一
時的に伸びる時期だ。記憶が正しければ、日本特有のものだったは
ず。それに合わせ、わざわざディーノは海外でチョコを買って来た
のだ。よく分からない行動力に感心してしまう。 


「ちょっと早いけど」
「あなたって本当に…」


莫迦な人だと言いかけた言葉を飲み込んだ。言葉自体は言っても構
わないものだったかもしれない。しかし、そこに過分に含まれそう
な感情を見せるのは躊躇われた。言葉の続きを待っているのだろう。
ディーノの顔が餌待ちの犬のような顔をしている。

襖越しに遠くで携帯の音がした。聞き慣れた電子音だ。すぐに聞こ
えなくなったが、出たのはおそらくロマーリオ。ボスに仕事の連絡
が入ったのを伝える為に、もうすぐ声がかかるだろう。 


「ねぇ、」  


声をかけ、手を伸ばせば届くところに動いてくれる。それを知って
いて恭弥は少しだけ甘く声を出した。予想に反することなく近づい
た男の首に手を伸ばし、自分の体も近づけた。身長を追い抜くこと
は出来なかったが、おとがいを軽く上げれば届く位置に唇はある。
驚いたように少し空いている口を啄むようにキスをした。 


「恭弥、」
「早く帰っておいでよ」


本当は目を見て、どこにも行きたくさせないようにするつもりだっ
た。あまりにも幼い考えだと改めて、視線は直前で外した。どんな
反応をするのか見たかった、と少しだけ後悔する。離れようと動い
た瞬間に抱きすくめられた。あまりに強い力だったことと、突然な
ことだった為、鼻をディーノの肩にぶつけた。 


「…痛い」
「悪ぃ、嬉しくて」 


謝る口とは反対に、力が抜かれる素振りはない。まぁ良いか、と諦
め半分で抵抗するのをやめた。彼といる時間は限られているのだ。
いなくなった後にその温もりを惜しむのは、もう厭いていた。騒音
もなく、ただ床の間に彼を思わせるような品物を置いて独り座るこ
とに厭いたのだ。

ならばこの感触を記憶に刻もうと、そう思った。

ほどなくして、ロマーリオから連絡を受けたディーノは恭弥を後に
した。彼の代わりに、座布団の上には空の紙袋がある。先ほどまで
の騒々しさはどこに行ったのか。静かになりすぎて耳鳴りがした。

新しい畳には匂いがある。青い、独特の匂いだ。それを記憶するこ
とは出来ても、やはり実際の匂いには敵わない。敵うわけがなかっ
た。今度は目を見て言おう。記憶する必要もないほど近づけば良い。

彼の残したチョコレートを口に含んだ。部分部分でざりざりとした、
何とも言えない食感が口の中で広がる。味は辛うじて抹茶だという
ことが分かった。そして、同時にこれが買われたものではない、と
いうことも分かった。箱の中には愛を綴ったメッセージカードが入
っていた。


「莫迦な人、」


それを読んで、先刻伝えることのなかった言葉が口をつく。少なく
とも今は独りでいる気がしない、と少し笑った。









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