自分よりも長身だろうか、とアンパンマンは立ち上がる。まじまじ
とその顔を見るが、どんなに記憶を引っ張り出しても見覚えがない。
黒髪が雨に濡れて、ぴっとりと白い顔に張り付いている。ここまで
走って来たのか、顔は少し赤らんで、肩は上下していた。長めの前
髪の隙間から、紫苑の瞳が真っ直ぐに見つめている。


「きみ、誰?」 


耐え切れず、尋ねた。 


「オレ様はバイキンマンだ。お前を倒しに来た!」
「…は…?」
 (…倒す?)


言われた言葉を反芻する。確かに誰かに恨まれることはしたかもし
れない。だが、こうも分かりやすく、面と向かって来た者はいただ
ろうか。 


「何故、僕を倒すの?」
「お前は正義の味方なのだろう?オレ様が倒すのに、これ以上の理
由は必要ない!」
「…」


アンパンマンは、目を見開いた。碧い瞳をぱちぱちさせながら、相
手を見る。自分が正義の味方ならば、その逆はいないのか。いつか
自問した答えが目の前にいる。  


「待ってたよ、バイキンマン」


その言葉が口を突くのに時間はかからなかった。

  
「『雨に濡れて弱ったアンパンマンは、悪い敵にあっけなく倒され
てしまいました』…これなら皆も納得してくれるかな」 


童話の一節のように淀みなく紡がれる言葉に、バイキンマンは眉を
潜める。そして、感情は悔しさに変化した。やっと見つけた宿敵は、
自分ではなく、遠くない未来を見つめている。覇気のない表情がそ
れを裏付けた。











                                                       その手を誰かの為に3










さぁ、と促されることに、バイキンマンは抗った。 


「泣き出しそうな正義の味方なんて倒しても意味がないのだ」
「!そんな顔…っ」
「そうだ。町には子供の給食用のパンがあったな。今日はそこを攻
撃しよう!」 


言うが早いか、バイキンマンはアンパンマンの脇を摺り抜け、町の
方へ走り始める。目の前の早い展開に頭はついて行くが、体がつい
て行かない。


「ま、待て!」 


もつれる足で、アンパンマンは『敵』を追い掛けた。    












「行けっ!カビルンルンっ」 

たった一人で攻撃もなにもないだろう、と考えていたアンパンマン
だったが、思惑が外れて嘆息する。カビルンルンと呼ばれたものは
単体ではなく、複数だ。緑や灰色、紫がかった何とも言えない姿で、
糸のような手足を持つ、球状の生物。主人の命令に従い、倉庫に向
かって飛び始めた。


「はっはっはっ!これで町中の子供の給食はカビパンになるのだー!」


飛び回るカビルンルンは、触れた所からカビを増殖させていく。黒
カビや青カビが、建物を覆った。その様子を高笑いしながら見てい
るバイキンマン。 


「…ショクパンマン、怒りそう…」


どんどん侵食される倉庫を目の前に、アンパンマンは呟いた。この
建物は、言わばショクパンマンの根城だ。ここで食パンを作り、毎
日町へ配りに行く。正義の味方以外の仕事。何事もそつなくこなす
ショクパンマンだが、この様子では明日の配達に支障が出るのは間
違いなかった。 


「…、」
「アンパンマン!!」 


これ以上面倒になる前に声をかけてようとした時だった。あちこち
飛び回った様子の二人が駆け付ける。 


「…二人共、どうして…?」
「どうしてじゃないでしょう」
「勝手にいなくなったら心配するだろーが!」 


何故、という問いにカレーパンマンとショクパンマンは息を荒げる。
何故と問われるのは自分だと思い込んでいたアンパンマンは呆気に
取られた。二人があまりにも安心しきった顔をするので、どうして
良いか分からないのだ。  


「すぐにでも工場に戻りたい所ですが…」
「あいつ誰?周りに飛んでんの何?」


二人の視線が、アンパンマンからバイキンマンへと移る。異様な光
景に疑問符を浮かべた。


「『バイキンマン』って名乗ってた。いきなり現れて、僕もよく分
かってない」 
「あの様子だと、中のパンは全滅ですね」
「その事実で十分だろ。あいつはオレ達の敵だ」

正体不明の人物から、敵だと認識を変える。心なしか、カレーパン
マンは嬉しそうだ。今まで『正義の味方』ではあったが明確な『敵』
はいなかった。『敵』がいるだけで、『正義の味方』という存在は
確立される。 


「おい、めちゃくちゃやってんじゃねーよ」
「貴方のおかげで私の仕事が増えました。…殴るなんて生温いこと
はしませんよ」 


かけられた言葉にバイキンマンは振り返る。三人揃ったのを確認す
ると、にやりと笑った。 


「さすがにオレ様も三人相手はきつそうだな。今日はこのくらいで
勘弁してやろう」 


腕を組み、ふん、と鼻を鳴らす。三人と対峙してはいるが、見てい
るのは一人だけだ。 


「お前たちが邪魔する限り、何度でもオレ様は攻撃する。」
「…」
「せいぜいこの町を守るんだな」 


そう言うと、バイキンマンは森の中に消えて行った。 


バイキンマン襲来のニュースは瞬く間に町中に広がった。発信元が
カレーパンマンだけに、多少のオヒレがついているようだ。結果、
三人の正義の味方としての地位は高まった。そんな中、アンパンマ
ンはバイキンマンの去り際の言葉を思い出す。その言葉をそのまま
受け取れずにいた。  


「しっかし、いつもやることがいたずらレベルだよなー」


 日誌の、本日の特記という項目を埋めながらカレーパンマンは呟
く。 


「いたずらレベルだから、僕たちで何とか出来るんだよ」
「アイツにいたずら以外出来るか微妙だけどな」


窘めるアンパンマンにからからと笑った。  


「…どうかしましたか?」
「え?」

部屋の端で読書をしていたショクパンマンが、ふいに言葉をかけ
る。自分に向けられた言葉だと理解し、アンパンマンは驚いた。 


「何か悩み事でも?」
「…そんな顔してた、」
「何だよ、何か悩んでんなら言えよ?」 


ショクパンマンの言葉の続きに、カレーパンマンが加わる。二人
から覗き込まれ、視線を思わず外に向けた。窓の外かには真っ青
に晴れ渡った空が見える。 


「そんな事ないって。二人とも心配しすぎ」 


疑ったままの二人に、アンパンマンは笑いかけた。町中の子供た
ちが見慣れた笑顔だ。


 「パトロール行って来るよ。川の経過もついでに見てくるね」


その笑顔のまま、出口へと向かう。反論を許さないタイミングに、
残りの二人は見送るしか出来なかった。