明け方の淡心






その日はひどく寒かった。ペット用に暖房は効いてはいたのだが、
どうにも足下は寒い。周りを見れば暖かそうな布団のような毛布の
ようなものにくるまれてすやすやと寝息を立てている。そんな中、
ナルミは店長の少しばかり…ではない陰険な嫌がらせにため息をつ
いた。

「…寒い。マジでむかつく」

音にしてみると、思いの外響いたので思わず身構えてしまう。奥か
ら鋭い眼光の訛りを持った店長が出てくるのではないかと。何を言
ってもやはり逆らえないものなのだ。だから余計に腹が立つ。

一度覚めてしまった目は、どうにも眠ろうとしない。ナルミはそれ
ほど身動きがとれない檻の中で、最近思い始めたことを考えること
にした。ツバサのことである。

実際に好きだの何だの言っているが、自分でもよくわからない。一
度弾みで言ってしまって、思いの外嫌がられた事が反発心を生んで
しまったらしい。引っ込みがつかなくなった今、根本的な事をナル
ミは思った。

彼は言わずと知れた、店長のお気に入りだ。確かにメスみたいに可
愛い。目がでかい。いい匂いがする。ナルミは感覚的に自分より弱
い者には興味を示さない。以前、バイトの須釜に、君は犬よりも狼
に近い犬だね、と称されたことがあった。

それを例えがたい笑みで…もし例えるなら、タキのような、とでも
しか言いようがないが、その笑みで言われたものだったので賛辞に
は聞こえなかった。

一度で良いからちゃんと話をしてみたい。口を開けば口論になるか、
店長シゲの有無を言わさぬ暴力で終わってしまうのがオチだ。思え
ば開店当初からまともに話した記憶がない。寒くて、頭も麻痺して
しまったのかもしれない。ナルミはそんなことをぼんやりと考えな
がら、つい言ってしまった。

「ツバサ、」

店内にある割と大きめの時計の秒針が聞こえる。それが鳴るわりに、
どうにも時間の進みが遅くナルミは待った。しかし、他のペットの
寝息を破って返ってくる言葉はなかった。

言葉に出した後に、恥ずかしくなって体中が熱くなるのを感じる。
足先が冷たく寒いのに、顔は服を脱いでしまいたくなるくらい熱を
持った。その熱が引く頃には一度なくなったはずの眠気が戻ってき
ていた。




店のガラスとシャッターの向こう側からバイクの音が聞こえる。う
つらうつらとしていた間に数時間が経ったことを知った。バイクの
音は、感覚を明けて進んだり止まったりしている。おそらく朝刊を
配るバイクだ。思ったより寝ていたのだとナルミは少し震えた体を
持った。

ふと、寝息と秒針の音に混じって、すすり泣く声が聞こえる。耳を
凝らした。隣にはレンタル中で誰もいない。いるのはフジシロとツ
バサとタキだ。確かに寝息は二つ確認でき、確認できない当人が泣
いている。それがツバサだと分かった時に、自分の檻の近くにいた
人の気配にまったく気付かなかった自分に驚いた。

奥から出てきたシゲは、ナルミを気にせずに他のペットを起こさな
いように足を忍ばせた。手にしていた鍵がチャリ、と鳴る。小さな
音を立てて、ツバサの檻が開かれた。

あの檻を開けるのは客でもバイトの須釜でも、ましてや自分でもな
い。いつもあの鍵を手にして、自由に外に出せるのは自分ではない
のだ。

「どないした、ツバサ」
「…シ、ゲ…」

聞いたことのない優しい声色と。やはり聞いたことのないツバサの
涙声。目を凝らしても暗闇の中二人がどのような状況にあるかは分
からない。ナルミにはそれが幸いのように感じた。

「怖い夢でも見たんか、ん?」
「…違う、よ」
「奥に来るか」
「…うん」

抱き上げたのが気配で分かる。シゲは顔が向き合うように抱きかか
えた。ツバサの体は見た目の通り軽いらしい。ナルミの目はもう闇
に慣れ、その様子を見ることが出来てしまった。ましてや、奥に行
こうとこちらに近寄って来ればなおさらである。

ここに来てやっと、シゲはナルミを気にしなかったのではなく、ツ
バサしか頭になかったということを知った。開けたら閉める、とい
うどこかの家庭の母親のような言い方を檻について口癖のように言
っていた彼が、ツバサの檻を閉め忘れている。

「…、」

奥に抱きかかえられたまま過ぎていくツバサと目が合った気がした。
声が出そうだ、と思ったが、何かが喉に詰まって何も言えなかった。
手を伸ばそうとしても、檻がそれを阻む。ツバサの横にいられるの
は、自分では、ない。自分と彼との距離がこんなにも遠いとは思い
もしなかった。

どうして泣いているかも聞けない。自分ではうまく聞けない。知り
たくても知ったとしてもおそらく自分はどうすることも出来ない。

あの僅かなすすり泣く声を、シゲはナルミより早く察していた。そ
れが何によるものなのかは、ナルミは分かっていた。分かっている
からこそ分かりたくなかった。そこで認めてしまえば、自分はもう
どうすることも出来ないことを知っていたから。

ツバサの目は酷く安心していた。まともに口を聞かないどころか、
顔も正面をきって見たことがない自分にそんな目を、表情を見せて
くれるだろうか。

「…情けねぇ…」

心に留めて置くよりも、音にして出してしまった方がいいと思った
けれどそれは間違いだった。ナルミ自身にだけ聞こえる自分の小さ
な小さな声は、ただ惨めにするばかりだった。思ったよりも、その
言葉が正しいのだと知る。

悔しいのか、焦れたのか、嫉妬なのか。
よく分からない気持ちを涙で流した。

シャッターと窓ガラスを経て朝日が差し込もうとしている。泣き顔
を見せてはいけない。ナルミは自分に言い聞かせた。つい今し方見
たツバサの顔は忘れなくて良い。ただ見なかったふりをすればいい。
またちょっかいをかけて、口論になって、シゲにどつかれるのがい
い。

何も知らないままの昨日と同じように振る舞えば少しはこの胸の痛
みが取れるだろうから。ナルミは淡い期待をして、無理にでも眠り
につこうとした。















→風が運ぶ言葉









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