オランダ某所。
長い船旅を終えたフゥ太は、ある要人と対面していた。片膝をつい
た足が僅かに震える。それも仕方のないことだった。目の前に座る、
薄い笑みを浮かべている男は自分を消すくらいの力を持っている。
自分だけならまだ良かった。しがない商家は簡単に流通から外され
てしまう。それだけは避けたかった。 


「そうですか。それでは陥落も難しいですねぇ」


一通りの報告を聞き終えた男は、手元にあるチェス駒を机にかつん
と当てる。目線はチェス盤の上。彼の頭の中には何十手と先の盤面
まで見えているのだろう。 


「はい。代官と同等と言って良い力を持っています」
「荒っぽいのは好きではないのですが…仕方ないでしょう」
「…」
「彼に動いて貰いましょうか」
「…分かりました」  


チェス盤の上で白のキングに向けて、ナイトが一つ駒を進めた。そ
れを見ながら、フゥ太は一礼し、その場を後にした。   









                              雲井はるかに鳴く11











「もう起きて大丈夫なのか」
「あなたが慌ただしく哲を呼んでくれたおかげでね」
「う、悪ぃ」
「まぁいいよ。それより場所を移したい」 


潮風の強い出島は、日本語を解する人間が多い。恭弥は視線で促し
ながら、港の端に向かった。文を出そうとしたが、結局直接会いに
来た。その方が何かと早いと判断した為だ。 


「…まず確認しておくけど、あなたが哲に言ったことは本気なの?」
「ん、本気だし本当だぜ?」
「僕に手を貸して、あなたに利益があるとは思えないけど」 


彼は「ひばり」の客だ。ただの郭主である恭弥に興味はないはず。
ましてや他国の地方のいざこざに首を突っ込むほど暇だとは思えな
い。この地は彼にとっては貿易場に過ぎないのだ。そうでなくとも
正体がばれている状態で、普通に会話が出来ることに疑問を持った。
ここまで関与して有益になるとは考えにくい。

当然の問いをすると、ディーノはきょとんとした顔をし、破顔した。 


「好きな奴の力になりたいってのは、そんなに変か?」 


ひとしきり笑うと、それこそ普通だとでも言うように真っ直ぐに恭
弥を見る。思わず気圧された。彼に悪意があるわけではない。ただ
ひたすらに純粋な善意に恭弥は慣れなかった。思わず視線を逸らす。 


「…なに、」
「んー?綺麗だなって思ってさ」 


横に顔を振ると、空いた首筋にディーノが手を触れる。それを手で
ゆっくり払いながら恭弥は視線を戻した。 


「僕は男だよ」
「知ってるよ。結構筋肉ついてるよな」
「…」 


会話が会話にならない。というより、こちらが疑問に思うことより
先のことをディーノは容認しているようだった。それは同時にこの
質問が無意味だということに言い換えることが出来る。潮風で乱れ
た髪を手で抑え、恭弥はため息をついた。 

空には薄い雲が流れ、海には商船が行き交う。それをぼんやり見て
いると、こんなにも穏やかな時間が自分の近くにあったのかと不思
議に思う。それも、隣にいる男のせいなのかもしれない。


「あ、あれ、俺んとこの船」
「…あなた、商人だったの、」


波を立てながら水面を走る大きめの船を指してディーノは話す。見
えるのか分からないが、手を振って異国の言葉で話している。廓で
仕事の話を聞いてはいたが、もう少し小規模のものだと思っていた
恭弥は少なからず驚いた。


「商人っつーか、商家なんだよな。まだ継いでねーけど、ゆくゆく
 のために現場で勉強」
「そう。大変だね」
「そーでもねーな。今は国に帰ってるけど、フゥ太ってやつも一緒
 だし」
「…」
「お前も独りで頑張んなくていーんだよ」


息が詰まる。ぽんぽんと頭を撫でる手が心地よかった。遊女である
ひばりの姿と、港で取りものをしていた恭弥。そのどちらも見てい
るディーノにとって、それが何を意味するのか。また、彼がどれだ
けこの地の為に身を賭しているのかも分かった。それ故に、独りで
戦って欲しくなかったのだ。

故郷を想う気持ちは、ディーノにもよく分かる。少しだけ、郷里の
仲間の顔が頭に浮かんだ。


「…分かった。必要であればあなたの手を借りる。でも、僕のこと
 を流布するなら、」
「お前に嫌われるようなことはしない」
「…」
「信用しろって。な?」


人を欺いて、傷つけ、裁いてきた。人を信用するなど、難しい話だ。
それでも、ディーノの言うことだけは信じても良いのかもしれない
という考えに傾いている。目の前の、色素の薄い瞳は細められ、笑
んだ。

どうして、という言葉を恭弥は飲み込む。彼にそういった類の質問
は意味を為さないことは先刻に分かっていることだ。


「どうかしてる」
「そーかもな」


こちらの嫌みはお構いなしだ。すべて、能天気な笑顔に吸い込まれ
ていく。つられて顔が緩むのが分かった。以前だったら自分を叱咤
しそういった表情を作らないようにしていたのだが。意地を張るの
も馬鹿らしくなり、肩の力を抜く。

それだけで景色が違えるようだった。数刻前までの弱気になってい
た自分が嘘のような。遊女と廓主の二重生活や、治安の維持。まだ
続けられる。

恭弥は大きく息を吸い込んだ。潮の馨りが肺に広がる。この土地が
好きだ。久しぶりに再確認すると、気持ちは楽になった。





→次







ブラウザで閉じちゃって下さい
*気まぐれな猫*http://kimagure.sodenoshita.com/*