遊郭街に戻った恭弥を待っていたのは平穏からかけ離れた事態だっ
た。







                                                            雲井はるかに鳴く12









雲居屋の中には遊女たちの寝所をまとめた部屋がある。もう半刻も
すれば身支度に忙しくなる彼女らだったが、今日は違った。寝巻き
のまま、布団の中で唸っている仲間を呆然と見下ろしているのだ。

布団の中にいたのは、まだ駆け出しの新造。幼さの残る顔が苦痛で
歪んでいた。ばたばたと手足を畳に打ちつけ、すでに手のひらや足
からは血が滲んでいる。見かねた仲間が抑えようとするがそれもま
まならない。


「うー、うー…っああああぁ」


同室にいた何人かの女は見ていられないとばかりに、部屋を出た。
残った遊女は新造の手を抑えようと組む。しかし、逆に引っ掻かれ
手も足も出なかった。


「禁断症状が出ています」
「…」
「恭さん、」
「…状況を、報告してくれる」


昨日から体調不良を訴えていた新造は、明け方に発熱が確認され、
ずっと寝所で休んでいたらしい。定期的に面倒を見ていた遊女が、
様子を見に来ていたが途中から異変に気づいたようだった。発熱
とは違う、もっと危機迫った様子。水を飲ませたり、寝かせよう
としても効果は上がらなかった。

同刻に恭弥も床に伏していた為、哲の対応も遅れていた。主が出
かけている間にことが急速に進行したため、医師を呼んで診断し
てもらったということだった。


「発熱してる奴、とりあえず問診だ」
「先生、」
「…お前、こんな時にどこ行ってた」


ばたばたと廊下を走る音がする。聞き覚えのある声に障子を開け
た。その声の主は少し疲労を見せながら苦い表情を見せる。シャ
マルだ。短く嘆息すると、別のものにすぐに指示を出した。恭弥
は想定される現状把握に眩暈を覚える。

日が沈みかけている。外は気持ちの悪いほど真っ赤な空を見せて
いた。ただただ赤く。朱色の柱も色あせるほどだった。その光も
弱まり、遊郭街が賑わいを見せ始めた頃、雲居屋の騒動も終息に
向かっていた。


「阿片だな」
「…阿片、」
「禁断症状まで出てるとなると、常習してた可能性がある」
「あなたのところはどうなの、」


阿片は外国から流れ出した麻薬だ。港での貿易を見張っていて一
番気を遣っていたものだった。武器の類は取り締まれば問題はな
かった。しかし、麻薬は体と心を蝕む。取り上げたところですぐ
に解決するものではない。

心の弱いものから蝕まれるそれは、遊女に影響を与えやすい。借
金のかたに入れられた自分の境遇を前向きに受け入れられる者は
少ないのだ。束の間の、限られた幸福な時間でも縋ろうとするの
は否めない。自分の廓でことが起こった。ならば、同じ廓である
金波楼でも同じことが起こっているのではないかと推察した。


「…何人かいる。ここが問題なければ様子を見てきたい」
「そう。分かった」
「恭弥、」
「なに?」
「お前、心当たりはないのか」
「…?」
「阿片が流れ始めたのは最近だ」


恐らく、恭弥の預かり知らぬところで密輸入が行われた。それ以
上の情報は持っていない。だが、シャマルの目はそこで終わらせ
ようとはしていたなかった。


「同郷のやつは疑いたくないんだが…」


視線をそらし、一度伏せる。口ごもる彼は珍しい。続きを急かす
ように恭弥はあえて眼だけ合わせる。空中で視線が交わると、シャ
マルははあ、と大きく息をついた。


「ディーノが来てからじゃないのか」
「…、」
「お前、何か知らないのか?」
「…彼は、」


その名前を聞くと、頭の中で膨大な情報が整理され始める。彼の
来た時期、彼の職業、彼の住処。その仮説はあまりにも有力過ぎ
る。どこかで心を許していた。恭弥もひばりも受け入れている彼
に対して、何か特別な感情を抱いていたのかもしれない。それを
否定したい気持ちが、ディーノを擁護する言葉を奪う。


「…まぁ、ここでとやかく言っても仕方ねーか。俺は一旦戻るぞ」
「…分かった」


遊郭街に灯りがぽつぽつと灯る。雲居屋だけはその灯りを点ける
ことはなかった。









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