金波楼は雲居屋とは少し雰囲気が違う。異国の血が流れている者が
多い為かもしれない。仕事そのものを楽しんでいる遊女が多い雲居
屋に比べ、恭弥にとってこの廓は少し重かった。










                              雲井はるかに鳴く15










「こっちだ」


遊女たちが休んでいる間を通り抜け、今まで踏み入ったことのない
奥まで案内される。細く長い廊下の先に、下へ降りる階段があった。
良く見ると、板がずらされており普段あるようなものではないこと
が知れる。自室にある隠し通路を思い出したが、躊躇いなくその階
段を降りるシャマルに不安を覚えた。


「どこまで行くの?」


僅かに木が軋んで音をたてる。声をかけても答える様子はない。暗
がりの中をゆっくりと降りる。十数段ほど降りたところでようやく
止まる。闇に目が慣れ始め、そこが小さな倉庫になっていることが
分かった。


「恭弥、」
「…なに?」
「俺と一緒にイタリアへ来てくれないか」


しゅっと音をたてて明かりが灯る。小さな火だ。ろうそくの火がゆ
らゆらとシャマルの顔を照らす。その表情は真剣そのものだった。
彼から出される雰囲気から逃げたかった。直視出来ず、恭弥は思わ
ず目を逸らす。体の奥で、これから起こる何かを予兆するように心
臓が高鳴り始めた。


「…冗談を聞きに来たわけじゃないよ」
「冗談で言ってるつもりはない」
「…」
「オレはな、」


小さいながらも灯りはシャマルの顔を照らしている。言葉をいった
ん区切った彼の瞳は、光に照らされてなお、闇をはらんでいた。無
意識に逃げようとした恭弥を追い詰めるように、手が延ばされる。
骨ばった指は恭弥の肩を捕えた。


「恭弥でもひばりでも、お前ならいいと思ってるんだ」


ゆっくりと告げられた言葉に、恭弥は思わず体を強張らせる。今ま
での、誤魔化せるような口調でもないことが、一層それを助長させ
た。

何故、今なのか。
今まで通り、核心に触れないところで弛んでいれば良かったのでは
ないのか。恭弥の考えは表情に出ていた。おもむろに、シャマルの
その理由だとでも言う様に部屋の隅にあった荷物に近寄る。かけて
ある布を取り外し、中身を見せた。

白い、粉。

それが何を意味するのか、理解するのに時間がかかる。ただ、額の
汗が一筋頬をこぼれおちるのは分かった。


「じきにここは薬に染まる。お前をそんな所においてはおけない」


意思の弱い連中がいるのをお前は知っているだろう、とシャマルは
続ける。乱暴に布を床に打ちつけた。積もった埃が宙を舞う。恭弥
の脳裏に浮かんだのは、廓の女たちだ。今回目に見えたのは氷山の
一角で、それ以上に心の弱いものがいるのは明白だった。


「矛盾しているね。そう思うならなぜ薬をまいたの」
「稼ぎ場だ。俺が国で生き残る為には、薬を流す新しい経路が必要
 だった」
「それだけの為に…」
「領主の恐ろしさをお前は知らない」
「意思が弱いのはあなたじゃないの」


小さな炎が僅かに揺れた。シャマルの肩に力が入るのが分かる。反
論か、懇願か。一瞬開いた唇は固く閉じられ、一呼吸おいてシャマ
ルは続きを話す。


「…そうだ。だから強いお前に焦がれた」


彼の視線はこの暗がりの中の虚空だった。何かを思い出して噛みし
めるような表情で言葉を紡ぐ。自分は強くない。強くなりたかった
という想いが、伝わるようだった。その言葉は、懺悔にも似た告白。


「オレと来てくれ」
「僕はここを離れるつもりはない」
「頼む」
「そんなに望むのなら僕を殺して連れていくといい」


手を広げ、恭弥は真っ直ぐにシャマルを見据えてそう言った。汗ば
んでいた手のひらに、冷たい空気が触れる。命をかける答えに、相
手は草臥れたように笑った。


「…、それは無理だな」
「…」
「また一人手にかけるのはさすがに気が引ける」


誰のこと、と聞きかけた時だった。上の方から乱暴に扉を開ける音
がする。がたんと扉が鳴ると、2人分の足音がばたばたと廓内を駆
け回る。声からするに、恭弥を探しに来た武とディーノだった。シ
ャマルは特に驚いた様子もなく、時間か、と独り言ちる。この状況
を予想していたかのようだった。恭弥が断るのを含め、全て受け入
れるような。


「お前の守るこの土地、悪かなかったよ」


既に背を見せ、視線を合わさずにそう言った。僅かに口元には笑み
が浮かんでいる。ただそれは、何かを懐かしむような、そんな表情
だった。それに魅入っているうちに、シャマルは隠し扉のようなも
のの先へ身を動かす。勢いのある人の動きは、空気を動かし小さな
灯を消した。消炎の匂いが恭弥の鼻先を掠める。

その匂いを知っていた。彼がよく吸っていた煙管の匂いだ。今すぐ
に駆け出して彼を捕まえればこの事件はほどなく解決するのであろ
う。懐かしさか。同情か。どれともつかない感情が、恭弥の足を止
めていた。








→次







ブラウザで閉じちゃって下さい
*気まぐれな猫*http://kimagure.sodenoshita.com/*