外は小雨が降っていた。分厚い雲が空を覆っている。シャマルは足
早に遊郭街から遠ざかった。不思議なもので、暗い空を見ていると、
晴れた青空を思い出すのが億劫になる。どんな空だったか。










                              雲井はるかに鳴く16










街の入口には二つの橋がある。「思案橋」と「思い切り橋」。一人
の女が遊女になる覚悟を決める為の橋だ。橋の下には水かさを増し
た川が流れていた。流れている落ち葉があっという間に彼方に消え
る。

それを見ていると、少し離れたところから足音がする。だんだんと
近づき、すぐ傍まで来るとゆっくり止まった。息を整えた少年は、
意を決したように言葉を発する。


「どうしてですか」
「…」
「あなたならもっとうまくやれたんじゃないですか」


フゥ太だった。咎めるように問いを重ねた。どちらの肩もじわりと
雨で濡れている。髪は雫を作り、肌に落ちた。フゥ太の知っている
彼は、仕事という仕事で失敗してことなどなかった。そうでなくて
も、仕事の引き際を見極められなかったことが不思議でならなかっ
た。


「…大切にしたいと思っちまった。そんなとこかね」
「…」
「お前にもあんだろ。だから今、ここにいる」


2人は同じ境遇に立っていた。それ故に、どこか仲間のような意識
もあった。領主の指示で手を汚した。それでも今まで均衡を保って
きたのに。その均衡を破った者がいることを、フゥ太はなんとなく
気づいていた。それは自分自身にも言えることで、問い返された言
葉がずっしりと重みを持つ。


「…ごめんなさい」
「謝るにしても俺相手じゃねぇだろう」
「でも」
「ほら、行きな」


道が分かれた瞬間だった。お互いに手を染めていた。お互いに大切
なものがあった。それを守りたいと思ったのはきっと同じだった。
シャマルは手をぶらぶらと揺らし、犬にするような動作でフゥ太を
遠ざける。この距離はきっと埋まらない。

フゥ太は言葉を飲み込むと、深く頭を下げた。ぽたぽたと自分から
零れる水が地面に落ちる。一つの人影は踵を返し、遊郭街へ戻って
行った。もう一つの人影は、橋の上から動かなかった。

次に来る人物が分かっていたからだ。今更どの顔を見せろというの
か。自問しながらも、その場を離れる体力はない。ゆっくりと近づ
く彼を迎え入れた。


「本当のことを言えよ」
「…」
「なんで姉さんは死んだんだ」
「…」


雨で冷えたのか、隼人の声は震えていた。銀色の髪の間から、ひどく
白くなった肌が見える。異人の血が色濃く出た彼を、匿ったのはなぜ
だったか。ひどく昔のような気がして、シャマルには思い出すのが難
しかった。


「…恭弥のせいじゃねーんだろ?」
「俺が、殺した」


彼と一緒に引き取った姉。ビアンキは執拗にシャマルの愛を欲しがっ
ていた。見返りなどいらない、と笑みを見せたのも遠い過去だ。自分
のせいで彼女が辛い思いをしているのを知っていた。知らないふりを
して、楽になるからと薬を勧めた。


「っ…本当なのかよ…?」


あの日。彼女を置いて、雲居屋へ向かった。ひばりに会いに。恭弥に
会いに。それを彼女は知っていた。そして強請ったのだ。


「致死量の阿片を渡したのは俺だ」
「!!」


隼人の中で最後まで信じていたかった人物。どんなに胡散くさくても、
姉を謀ろうと、信用は出来る人物だと。最初にこの街で救ってくれた
のは他ならぬ彼だったのだから。


「間違えるな隼人。お前は、誰も殺さない」


事実を受け止め、今にも泣きそうな彼に向って、シャマルは聞こえる
ようにゆっくり告げた。そして、何の前触れもなく地を蹴り、隼人の
目の前から姿を消す。数瞬間の後、どぼんと水音がした。


「…な、に…」


シャマルが橋から身を投げたのだ。それを理解すると一気に血の気が
引いた。雨に濡れて冷たくなった体から、血液が流れ出たようだった。
さあぁぁっと、川は濁流になり人を飲み込んだ形跡を残さずに流れる。


「なんでだよ…?」


懐で小刀が震えた。怒りを覚えても、今度は手を延ばさなかったのに。
彼を守りたかったから、手にしなかったのに。その守りたかったもの
は、あっという間に下流へ流されていった。

隼人は小刀の柄を握る。力の入らない手で、自分の腹にめがけてそれ
を振り下ろした。覚悟していた衝撃は来ない。痛みも何も感じない。
反射で閉じてしまった目をゆっくり開けると、目の前で刀の刃を握る
手があった。ぽたりと血の雫が隼人の膝に落ちる。


「奴が守りたかったのはお前じゃないのか」


突如現れた男は痛みなど感じないとでも言う様に淡々と言葉を並べた。
隼人の腹を刺すはずだった刃は、見知らぬ男の手によって止められて
いる。


「その命を、お前は捨てるのか」


見上げると、冷静に隼人を見下ろす瞳と視線がぶつかった。守りたか
った男が守りたかった自分。その言葉を反芻していると、自然と力が
抜けて行った。喪失感は変わらない。ただ、そこに目の前の男の言葉
が、驚くほどすんなりと入った。


「道を尋ねたい。数刻、生き延びろ」
「…誰だ、お前」
「徳松…いや、徳川綱吉だ」


血の滴る手を軽く振り、雫を払うと懐から上等な布を取り出す。それ
を包帯代わりに手に巻くと、隼人に向って少しだけ微笑んだ。

徳川綱吉。
この国の現将軍の実弟。

自分にとって彼がどういった人物なのか、隼人にはまだ考え付かない。
ただ、命を救ってくれたのだと。その事実だけ強く頭に残った。






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