雲居屋という、丸山遊郭の一角。この場所に似つかわしくない面々
がこうも揃うものなのか、と。茶を出しながら哲は思った。自分の
主に出すのも緊張する手が、いつもより更に強張る。この客間にい
る、このお方は国の中枢に近いところにいる人物。徳川綱吉。彼が
この見世を訪ねて来たのは一刻ほど前のことだった。









                              雲井はるかに鳴く17









何故か一緒にいた隼人は憔悴しており、ここに着いた途端に意識を
失った。その介抱をしなくてはと動こうとしたが、綱吉にも手当を
しなければいけない傷があった。一連の作業を済ませる頃には外の
雨も上がっていた。


「…」


上座には当然ながら綱吉。そして雲居屋の主、恭弥。ひばりの常客
でイタリアの商人のディーノ。その横にフゥ太と続く。その向かい
には武がいつになく神妙な面持ちで座っていた。哲が座っている下
座からは各々の様子がよく見える。


「ずっと貴方にお会いしたかった」


訛りのない、滑らかな言葉が恭弥に向けられた。普通であれば一段
高い所から言う台詞であろう。しかし、この雲居屋にはそういった
上座はない。それでも威圧感があるのは徳川の血だろうか。


「幕府の要人が何の用だったかな」
「本来であれば、兄の家綱が赴くべきところだ。先に非礼を詫びよ
  う」
「…」

何の躊躇いもなく下げられた頭に、恭弥は少し驚く。綱吉の伏せた
瞼に数本の髪がぱらぱらと垂れた。日本人の髪色よりも少し薄いそ
れは稲穂の色によく似ていた。その所為かは定かではないが、どこ
か柔らかい印象を受ける。


「諸外国との貿易の均衡を保たれていた貴方の力に感謝したい」
「…厭味にしか聞こえないね。結局力は及ばなかった」


飲みかけた茶卓を戻すと、恭弥は力なく呟いた。脳裏には苦しんで
いた遊女や、自分の姉を失い、憎しみを露わにした隼人の顔が浮か
ぶ。彼らを救うことが出来なかったのは事実だ。それを感謝される
などと言われても、真実身に欠ける。

外の喧噪が、部屋の静寂を一層浮き彫りにしていた。ここにいるも
のが、薬がもたらした影響を知っている。だけらこそ、恭弥の沈黙
が重かった。


「申し訳、ありませんでした」


それを破ったのはフゥ太だった。額を畳に擦らせるように、深く頭
を下げる。声は僅かに震えていた。必死で涙を堪えるように、肩に
力が入っているのが見て取れる。


「…こいつは同郷のなじみだ。俺と同じ商家の人間なんだが」
「ディーノ…僕から話すよ」


そういえば紹介をしていない、と呟きながらディーノが言葉を添え
た。今日、初めて恭弥たちの前に姿を見せた人物。フゥ太はゆっく
りと今回のことの顛末を話し始めた。

彼らがイタリアの商人であること。フゥ太の商家は年々力が弱まっ
ていたこと。それを引き合いに、領主から薬を流すように促されて
いたこと。協力出来ないのであれば、皆で生きていけると思うな、
と言われていたこと。そこまで話すと、また頭を下げた。自分の弱
さが招いたのだと、小さく呟いた。

フゥ太の肩には彼以外の人生が背負われていたのだろう。それを察
したのか、恭弥は頭を上げるように促した。


「先生と結託していたのも君かい、」
「…はい。シャマルさんは僕と同じような境遇だったんです」
「…そう」


この丸山遊郭をあらたな薬を流す場所にする為にシャマルは派遣さ
れた。しかし、なかなか進まない開拓に痺れを切らした領主がフゥ
太を追加で派遣した。出島から流出したとされる銃の流れを追う為
に、わざと隼人に渡るように仕向けたのだと、フゥ太は眉間に皺を
寄せたまま説明する。


「…しかし、それだけでここまで広まるとは思えません。恭さんが
 取り締まっている中で、規模が大きすぎます」


個人が動いて流通出来るものなど限られている。しかし、今回の遊
郭街の様子はその規模ではない。流出する速さが、個人の管理出来
る域を軽く超えていた。


「代官直通の積み荷」
「そこまでご存じか」
「気がついたのは昨日だよ。…まったく腹立たしいね」


哲の発言に息をつきながら、恭弥は呟く。綱吉が感嘆の言葉を漏ら
すが、素直には受け取れなかった。流通する積み荷をすべて検閲す
ることは出来ない。小さいものであれば、時間をかけてでも検閲を
行ったいた。しかし、代官が管理するものだけは手を出せずにいた
のだ。それでも、入港や出港の記録を取っていたため、その結論に
至っていた。


「我が国の中枢にある実権は兄が握っている。しかし、地方の悪権
 までは目が届かなかった」


その代官の管理が出来ていたなかったのだと、綱吉は頭を下げた。
もともと彼がここまでする必要はない。歴代の将軍も、近親者だか
らといって行政に手を出さない者もいる。むしろ、地方の治安を心
配するほど人間の出来た人間を、恭弥はまだ知らなかった。


「で、俺が調査に来たんだ。…結果的にだます形になっちまったけ
 ど」
「幕府の犬か」
「哲、」
「はは、わんころは好きだけどな」


地方の情報を、中心に伝える人物が必要なのは明白だ。ふらりと現
れ、雇ってくれる人がいないのだと大層な刀を持って現れた武の事
を、恭弥は思い出していた。

嘘は言っていたなかったが、真実も言っていたなかった。本人に悪
意を感じなかったのはそのせいか、と胸中で納得する。

哲の言葉にも武は笑った。そういう男なのだ。


「…それで、僕の疑いは晴れたの」
「最後まで謎だった、情報源のからくりも分かったからな」
「そう」


地方の悪政を見定める為に、代官ではなく恭弥のところに来た。実
質、流通を仕切っていたのは恭弥だ。それを見越して将軍側の人間
が来るとすれば、疑ってかかっていると判断して間違いない。にも
関わらず、こうして当人同士を対面させるのにはそれなりのきっか
けがあるということ。武に最終確認を取ると、さしたる様子もなく
頷いた。


「恭弥、取引だ」
「?」


それまでほとんど口を挟まなかったディーノが声を上げる。相変わ
らず彼の目はまっすぐだ。恭弥にはそれが少し眩しく映る。


「俺も商家の端くれだ。うちの国の流通をしっかり取り締まる」
「…それにも限度があると思うけど。取引というからには何か勝算
 があるの、」
「ああ。領主とも話をつける」
「それであなたは何を得たいの?」

その言葉を待っていたとばかりに、口がにんまりと上がった。不思
議とそれには力があった。この状況を打開出来るという自信を起こ
させるような力。隣に力なく座っていたフゥ太も、いつの間にか明
るい表情を取り戻しつつあった。


「恭弥かひばりを俺にくれ」
「なに、」
「それで、お前のために国を動かす」


冗談、ではなかった。ディーノは恭弥の目を見て真っ直ぐに言葉を
放つ。ひばりでも恭弥でもまったく変わらないのだなと可笑しく思
った。周りに要人も、ディーノの言葉を待っていた。

日本の端。
江戸からも離れたこの辺境の地で、国を動かす一大事が決まるとは
誰も予想出来なかった。





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