薄いおしろいで塗られた手に、室内の光が映る。ゆらゆらと落ちる
影の上から、筆が動いた。書かれた言葉は日本のものだ。あらかじ
めフゥ太に持たされていた簡易の訳書を開き、意味を知る。


『わたしは こえが だせません』

                          







                              雲井はるかに鳴く5








視線を紙の上に落とされたまま、ひばりは動かない。相手の様子を
伺っているようだった。細い指が筆を傍らに置く。筆と硯がぶつか
る小さな音がした。


「…そうか」


ひばりにとって、嘆息の混ざった返答は聞きなれたものだった。話
をする為に大枚をはたく者も少なくない。期待外れだ、騙された、
と喚く客も過去にいた。いくら通っても他の遊女のような手ごたえ
を感じられない。でも、次こそは、という感情は麻薬に似ていた。
それを求めてひばりのもとへ来るのは、大口の客が多い。それ故に
廓一番の地位を保っていられるのだ。彼はどちらなのか。見定める
ためにひばりは顔を上げ、相手を見やる。


「余計な金使っちまったなー」


この手の言葉も過去に何度か聞いていた。ひばりは手慣れた様子で
紙に筆を走らせる。


『いただいた おかねは おかえしします』


一番後腐れなく、簡単に解決できる方法だ。書かれた文字を先ほど
と同じように訳書と見比べたディーノは、慌てて声を上げた。


「違う、違う。お前の話じゃねーんだ」
「?」
「昨日、字を教えてくれる人を雇ったばかりでさ。でも、ひばりに
 教えてもらえばいいかなって思って」


金色の髪がきらきらと光る。うっすらと透けた髪が揺れた。害のな
い笑顔をこちらへ向けるディーノ。そういった人間の表情を久しぶ
りに見た気がした。そのせいなのか、ひばりは自分の表情が緩むの
を感じていた。近所にいた犬に似ている、と思ってしまうとさらに
緩んだ。


「え、なに?」


ふいに笑んだひばりを見て、自分が何かしたのでは、とディーノは
慌てる。自分の髪や、まだ着慣れていない着物を気にする様が更に
笑いを誘った。声を出して笑うわけにも行かず、気を紛らわせよう
と筆を手に取った。


『なぜ にほんごを かけるようになりたいのですか?』
「…あー、手紙を書こうと思って」
『おしごとですか?』
「いや、ひばりに」


虚をつかれた、とはまさにこのことだった。恥ずかしげもなく愛の
言葉などを囁く人種だということは知っていた。だが、目の前の男
ほど澄んだ目をしているのは見たことがなかった。


『ありがとう ございます』


紙に載せた言葉は紛れもない率直な感情だ。柔らかく笑むひばりの
表情に、ディーノは息を飲んだ。形の良い唇は綺麗に弧を描く。細
められた瞳に自分が映っていると思うだけでディーノの胸は高鳴っ
た。同時に、出島で会った男の言葉を思い出した。


「…確かに好敵手だな」
「?」


彼もきっと、ひばりのことをただの遊女だとは思っていない。だか
らこそ出た言葉なのだ。ただの客であれば、自分の存在をあそこま
で推す必要なない。何のことかと首を捻っているひばりに、ディー
ノは廓主だと言った男のことを話した。


「あいつが言った意味が分かった気がする」


ひばりの目には、遊郭に似つかわしくない真っ直ぐな笑顔が映った。
彼はきっと常客になるのだろう。それを何故だか嬉しく思っていた。










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