「…これが最後だよ」
「おう。親父にはよろしく言っておいてくれ」
「もー、決めたら曲げないんだから」
「悪ぃな」


軽く手を振ると、フゥ太も合わせて頭を下げた。その表情は不満顔
だ。口をへの字に曲げ、眉を寄せている。しかし、いつまでもそう
しているわけにも行かず、そのまま船に乗り込んだ。









                              雲井はるかに鳴く7









長崎の港から、欧州行の船が出港する。その船に乗るのをディーノ
は拒んだ。もともと日本へは市場調査の為に来たのだが、違う目的
が出来てしまった。このまま国に帰るには、心残りがありすぎる。
報告だけであればフゥ太だけでも問題ない。ディーノはそのまま船
を見送った。

櫻の散る季節ではあるが、港は海風が強く暖かいとは言えない。昨
夜は雨も降り、空気は冷えていた。足元では砂利と雨水が混ざり、
下駄の下でざりざりと感触を残す。掃き始めた当初は鼻緒ずれでよ
く痛めていた足だ。今ではそんなこともなく、足によく馴染んでい
る。出島の宿に戻ろうかと踵を返した時だった。


「取りものだ!」


少し離れたところから、ひと声上がる。それにつられて周りにいた
人たちもどよめき始めた。どうやら、街から誰かが来ているようだ
った。集まりかけていた人垣が、示し合わせたように一斉に退いた。


「この街を乱す輩は許さないよ」


若い声だ。ディーノはちょっとした好奇心でその場に近寄った。黒
髪を散切りにした頭は、足もとに転がっている男数名を見下ろして
いる。彼がその後ろに従えている数名の男たちの首領であることは
間違いなかった。後ろに控えていた男には見覚えがあった。雲居屋
の男だ。たしか、哲と言ったか。指示通りに動き、転がっていた男
たちを縛り上げる。他の痛めつけられていた男は、渾身の力を振り
絞って哲たちの手を振り払った。突然の出来事に、ディーノはその
場を動けずにいた。そして、そのまま向かって来た男とぶつかった。

がたいの良い男で、ディーノは危うく吹っ飛ばされそうになる。し
かし、直前の反応で僅かに向かってくる力を逃がし、逆に男の腕を
捕まえた。ぐるりと体が反転し、結局男の背中に乗りかかる形で転
んだ。打ち所が悪かったのか、男はうめきながら動かずにいる。

どいてしまっても逃がしてしまいそうだったので、ディーノは力を
緩めることはしなかった。けれど、何故この男が追われているのか
も分からないままでしばらく停止する。すると、後ろから先ほどの
首領の声がした。


「あなた、大丈夫」
「え、あぁ…」


哲たちがディーノの代わりに男をとらえ始めた。必要無くなったデ
ィーノは裾を払いながらその場に立つ。いつの間にか周りには人だ
かりが出来ており、すっかり囲まれていた。それを首領が一瞥する
と、すぐに散らばった。


「恭さん、調べた人物と同一です」
「そう。藩主に連れていくついでに彼を廓へ」
「は、」
「取りものに協力して怪我をしているようだからね」
「承知いたしました」


恭さんと呼ばれた男は、ディーノよりも一回り小さかった。しかし、
彼が醸し出す存在感は誰の比にもならない。少し見上げられた視線
の鋭さに、思わず息を飲んだ。足に違和感を感じ、見てみると膝を
擦りむいて出血している。痛みこそないが、見た目は痛そうだ。そ
れを見て先ほどの指示か、とディーノは納得した。

ディーノの傍らをすり抜け、数人の男たちの先頭で歩く彼は何者な
のだろうか。好奇心も手伝って、怪我をしている足取りは軽かった。


「…何か言いたいことがあるのかい」
「え、」
「無言で見られているのは、あまり気分が良くないな」
「いや、悪い。…名前、聞いてないと思って」


廓に行く道中、ため息交じりに振り返った。彼にそう言わせるほど、
ディーノの視線は固定されていたようだ。指摘されて初めて気づき、
慌てて弁解する。勝手に首領だと思っていては彼にも良くない。首
領は少し考え、ディーノに視線を合わせた。


「恭弥。雲居屋の主だよ。会ったことはなかったかな」
「きょうや、」


音を確かめるようにディーノは呟く。先ほどからひっかかっていた
ことが何か分かる。彼にはどこかで会ったような気がしていたのだ。
ここ最近足しげく通っていた雲居屋の主であれば納得がいった。き
っとどこかで顔をみかけたのだろう。それが妙な既視感を生んでい
た。


(この香りも同じ廓だからか)


日本に来てから初めて嗅いだ香り。
恭弥からはその香りがほのかにしていた。










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