「なぁ、大丈夫かよ?」
「平気よ」
「…やっぱり今日は休んだ方が、」
「平気だって言ってるでしょう」 







                              雲井はるかに鳴く8










ビアンキが体調を崩し始めたのは、つい最近だ。季節の変わり目は
得てしてそういうものだが、仕事が仕事である。隼人は心配せずに
はいられなかった。

見知らぬ男の相手を強いられる今の立場を良しとは言えない。ただ、
この金波楼は安全に寝食出来る唯一の場所だ。そう易々と手放せな
かった。 


「…それ、どうしたの」
「え、」


脇に差していた小刀を視線と共に問われ、言葉に詰まる。武家の出
でもなければ、まとまったお金も持っていない彼には過ぎた品だ。
雲居屋の用心棒に貰ったとは言いづらく、隼人は口を開けずにいる。 


「先生に迷惑をかけては駄目よ」
「…分かってるよ」 


あやすような姉の口調は苦手だった。亡き母に似るようで、姉から
遠ざかる感覚があるからだ。その場にいるのが辛くなり、隼人は足
早に部屋を出た。階段を下りようとすると、ちょうど下からシャマ
ルが上がって来るところだった。どちらともなく、視線が外れる。
診察道具一式を入れた木製の箱を持っていた。

今日はビアンキ含め、遊女たちを診察に回る日だ。いつも金波楼の
人間を診た後は雲居屋へ赴く。駆け出しの遊女たちからすれば、自
分の健康を保証してくれる唯一の人間だ。その分、信頼も厚かった。
ビアンキもその例に漏れることはない。

すれ違い、彼女の部屋の前にシャマルが立つとゆっくり障子が開く。
迎え入れるのを焦らすように、丁寧に開ききると細く白い手が、シ
ャマルの首に絡められた。眉尻を下げ、少し困ったように笑うと、
そのまま部屋に入り障子が閉められる。その様子を、隼人は祈るよ
うな気持ちで見ていた。何を祈るのかは本人にも分かっていない。
だが、姉の心を掴む彼が、別の人物に固執していることは知ってい
た。

だからなのかは分からないが、ろくに会ったこともない雲居屋のひ
ばりのことは、好きになれなかった。    








恭弥たちが郭に戻ると、待っていましたとばかりに、シャマルが笑
顔で出迎えた。手には診察機材を持っている。今日は診察の日だっ
たか、とそれを見て恭弥は思い出す。武が退屈そうに廓の入口で座
っていた。主が戻らなければ客を中に入れることも出来ない。それ
が遊女相手ともなればなおさらだった。


「港の方は大変だったな」
「盗まれたの知っていたの、」 


どれだけ耳が早いんだ、と哲がため息をつくと、それに被せるよう
に恭弥が言葉を次ぐ。もともと今回の騒ぎの発端は、出島にいた人
間からシャマルが受け取った銃にある。その銃は、彼の郭である金
波楼に居候している隼人が盗んだものとされていた。盗まれたのを
黙認していたのかと問う。


「代官に言うより、恭弥に見つかった方が早いだろ」
「…」
「怒んなよ。俺にとっては大事なお客様には変わりねーんだから」 


密告するわけにはいかない、と暗に言っている。確かにこの所、長
崎の治安を乱すような事件が多いにも関わらず、代官の腰は重い。
何かにつけて、解決までの手を抜こうとするのだ。噂では、江戸で
起きた大飢饉の立て直しのとばっちりが地方に来ているのだという。

しかし、それはこの地を乱して良い理由にならない。恭弥は哲に今
回の件の書類を持たせ、代官のところに行くように命じた。書類の
中には解決までを滞りなく進める為の情報が盛り込まれている。こ
れで、この件は直に片付くだろう。


「無駄口叩きに来ているんだったら、帰ってくれる、」
「恭弥に会いに来るっていう大事な用があって」
「武、」
「ほいよ」


一言で恭弥の言わんとしていることを理解しのか、武が腰を浮かし
刀の柄に手をかけた。彼の仕事は一級品だ。一呼吸の後には、対象
の首が転がっているだろう。その実力を知っているだけに、シャマ
ルの表情は厭でも引きつった。冗談でも武に刀を抜かせたくない。
それだけの覇気を感じるのだ。


「あんた、ひばり目当てじゃなかったのか」
「お、いつぞやの」


目の前で繰り広げられるやり取りに、完全に置いていかれている男
が堪らずに声を上げた。ディーノである。出島で起きた騒動に関わ
りここにいるのだが、すっかり存在を忘れ去られてしまっていた。
以前に声をかけたことのある同郷の人間だ、とシャマルは笑い、そ
れを口実に武たちから距離を取る。

一定の距離が置かれたのを確認し、武は柄から手を離した。恭哉は
書類を取りに行くことを伝え、奥に消えた。ここの主を見送ると、
シャマルはおおげさに息をついた。


「俺は綺麗なものなら何でも好きなのさ」
「そーゆーもんか」
「そーゆーもんよ」


男女に分け隔てないと言えばそうかもしれないが、ディーノは首を
捻った。確かに、整った顔だと思う。黒髪と白い肌の対比は目を引
くものがあり、存在感も周りに引けを取らない。ただ、それを愛で
る対象にはならなかった。直感的に女好きだと思ったシャマルが、
男である恭弥に興味を持っていることが単純に不思議だった。また、
彼にそこまでの魅力があるのかと、好奇心がわく。


「はい、先生。看てほしい一覧」
「どーも。…今回もひばりちゃんはいないんだな」
「彼女は殊更健康だからね」
「残念だなぁ。俺はそれを楽しみに生きているのに」
「それじゃあ、きっと長生きできるよ。良かったね」


にっこりと表情は笑っているが、その言葉はひどく抑揚がない。奥
から戻ってきた恭哉が一枚の紙をシャマルに渡しながら言った。シ
ャマルは、はぁと溜息をつくと医療器具を持って室内に入って行っ
た。


「さて。あなたの手当をしないとね」
「え、あ、そうだった」
「自分が怪我をしているの忘れてたの?」


可笑しな人、と笑う表情が先ほどと違うことはディーノにも分かる。
すらりと伸びる指先が、怪我をした箇所に触れ、手当をし始めた。
今までよりも近い距離に、多少のこそばゆさを感じていたが、それ
も次第に薄れて行った。膝の部分を手当しているため、恭哉は屈ん
で、ディーノの顔色を上目遣いで伺う形になる。その様子を見なが
ら、シャマルの意見も分からないでもない、とディーノは思いなお
した。









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