「ひばりさん、」


長崎の治安維持、雲居屋の経営、そして遊女としての仕事。それら
をかけもちしていた体は徐々に疲れをためていた。それに気づいた
のは、常に傍らにいた哲だった。今日も予約の入る"ひばり"の支
度の為に、主の部屋にいた。








                                                            雲井はるかに鳴く9









「ひばりさん」


支度を終えたひばりだったが、台帳に視線を落とすばかりで、反応
を見せない。機嫌が悪い時などは無視をしているという状況も考え
られたが、どうやらそうでもないらしい。表情を伺おうと、少し背
を丸めて、哲は"主"を呼んだ。


「…恭さん?」
「…え、」


眼を見開いて哲を見るひばりだったが、驚いたのは哲だった。ひば
りの格好をしている時に、普段の呼称で振り返るなどしたことがな
かった。ひばりと恭弥を別人として周りに知らしめる為には、演じ
きらねばならぬところだ。それこそ、それぞれの記憶の情報を混同
させないように気を配っていたにも関わらず、彼らしくない失敗だ。


「お疲れのようですね」
「…少し、熱っぽいかな」
「今日はお休みに、」
「いいよ。大丈夫だ。先生が置いていった常備薬があったでしょう。
 持ってきてくれる、」
「…はい」


主には逆らえない。いや、恭弥という存在に逆らえない。本人の健
康状態が絡んでも変わらないこの状況が、哲には歯がゆかった。白
湯を用意し、薬を飲んでもらうことが、哲に出来る精一杯のことだ
った。





「久しぶりだね、ひばりちゃん」


体調の優れない時に、彼の相手をするのは憚れた。しかし、ひばり
の正体を疑っている彼へ不要な嘘は避けたい。最近予約が重なり、
断っていたのも事実だ。情報や収入源として割り切ることにした。


『シャマル先生、お久しぶりです』


筆を滑らせ、にっこりと微笑む。熱で少し弱っているせいか、その
表情はいつもよりも柔らかい。それを満足げに見ていたシャマルは
ゆっくりと口を開いた。


「今日はきみに話があるんだ」


いつもよりも真剣味を増した言葉。普段が普段だけに、ひばりは身
構えた。改まっての話に、楽観的な予測は出来ない。笑みを浮かべ
つつも、筆を握る手のひらがじっとりと濡れていくのを感じる。な
かなか続きを話さないシャマルを見た。


「この仕事、好きかい」
「…」
「俺に身請けされる気はないか?」
「!」


身請けは、遊女が聞けば借金暮らしから逃れられる唯一の方法だ。
普通であれば飛びついてでも受けたいことだろう。ただ、その遊女
の借金を肩代わりする身請け主はそれ相応の金額を廓主に渡す必要
がある。生半可な気持ちでは言えない内容だ。シャマルという人物
が人物だけに冗談かとも勘ぐったが、様子を見るとそうでもない。
返答を待つ彼の顔は、今までに見たことがないくらいに真剣そのも
のだった。


「…身請けと言っても、妾にははしない。正妻として迎えたいと思
 ってね」
『金波楼主が遊女を妻にするなど、随分と酔狂ですね』
「はは、珍しくきつい物言いだな」


"ひばり"はあくまで恭弥が情報収集するための一つの手段だ。そ
の手段が恭弥と違う人生を歩むのは物理的に無理だ。その心理が文
字に出てしまい、シャマルの指摘に耳が痛かった。

彼が、ひばりと恭弥が同一人物ではという疑いを持っているという
ことは明白だ。その彼が、この申し出をする意味を考えると、本当
に酔狂としか言いようがない。


「本気だよ。ま、考えてみて」


熱のせいか、耳鳴りがする。その中でシャマルの声が、妙に響いた。
酒を飲み、食事をし、いつも通りに済ませる。帰り際、シャマルの
手が冷たく、心地良かった。少しだけ握ると、それが嬉しかったの
か、彼は年甲斐もなく破顔していた。その表情は嘘ではないのだろ
うとぼんやり考える。

禿から声がかかり、次の座敷に移動した。今日は予約が立て込んで
いる。哲の言う通り休めば良かったかと、弱気に考える自分を叱咤
して、足を進めた。



「ひばり、どこか具合でも悪いのか?」


朱や紫の色が多い部屋の中、彼の髪色は眩しい。ひばりの馴染みに
なり日は浅いが、その観察眼には頭が下がった。ディーノは心配そ
うに、ひばりを覗き込む。シャマルとの一件の動揺や、体調のこと
など悟られないように、にっこりと笑う。障子を開け、ゆっくりと
頭を下げた。

しかし、頭を上げる際に世界が回った。貧血か、酒のせいか。急に
ぐるりと焦点が定まらなくなる。それに耐えるように眉間に皺が寄
った。体の奥から火照るような感覚。熱だけのせいではないと感覚
的に理解する。だが、その原因は何なのかまでは分からなかった。

混乱する。
灯の明かりがまぶしい。
色彩が、あやふやだ。


「っひばり!」


ぐらりと体が倒れそうになるのを見て、ディーノが慌てて駆け寄る。
触れることはあっても、体重を支えるまで密接する機会はなかった。
しっかりと自分を抱きとめる腕が、ひばりには心地良く、空いてい
た手が自然に相手の背中に回る。ここ最近、こうして人と触れるこ
とはなかった気がする。楽な方向に行く思考を止め、腕に力を込め
た。自分から離れようと思った時には、ディーノの力が勝り、容易
に離れられない状態にあった。


「さわ、ない…で」
「…?お前、」


ひばりの口から発せられた言葉は紛れもなく男のもの。ディーノの
首を傾げる様子を視界にとらえながら、ひばりはそのまま意識を失
った。










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